
只今開催中 天草創磁 江浦久志さんの作陶展(~14日まで)
DMをたよりに京阪神から、ご近所から、海外の観光客から、
陶芸を学ぶ若者から、伝統工芸の作家からーー
幅広い方々にご覧頂いております。
全ての方に気さくに親切に、ご自身の陶磁器にかけてこられた
熱い人生を語られる江浦さん。

今日も、京都朝日焼の変遷と陶土、釉薬、技法について研究した結果を、
執筆されたばかりの江浦さんのお知り合い前崎さんがみえました。
2~3年前、天草陶石の調査のため現地へ赴き、江浦さんに
協力してもらわはったそうです。
「あの時は、風邪で最悪の体調だったんだよ。。」
それでも、様々な調査に有益な情報を紹介してくださったり、
仕事場を説明してあげられたそうです。
「お陰様で、やっと本ができました。有難うございました。」
「松林鶴之助さんには、こちらも多大な影響を受けましたからね。
こんな立派な本に紹介して頂けたら、私も嬉しいですよ。」
京都朝日焼陶工 松林鶴之助氏は、セントアイブスでバーナード・リーチの窯を
設計した、当時の多くの民藝作家にも影響を与えた人物。
「年齢のせいなのかなー、何か自分が必死にやってきたことを若い人に <伝えたい> と思う気持ちが強くなるんですよー。」
自らを <オタクですわ。> と仰る、大の大、焼物好き。
先日の懇親会でも、〆のお薄を一服戴き、焼物談議に花咲きました。
江浦さんの陶歴をば。
1955年 熊本県 天草生まれ
1976年 佐賀県伊万里にて 故 澤田犉氏に師事
その後の作陶活動に多大なる影響を受ける
1978年 福岡県小石原焼にて陶器を学ぶ
自らの作陶において「磁器と陶器」の模索
1980年 佐賀県 有田に移る
故 久保英雄氏開窯の「肥前創磁 大日窯」にて、
故 子息 徹氏のもと、染付・上絵を学ぶ
1983年 郷里天草に戻り、地元の陶石採掘販売の会社に入社
磁器原土の「天草陶石」を学ぶ
有田「大日窯」の久保氏蒐集の初期伊万里陶片に感銘を受け、
天草における「近世陶磁器」研究をライフワークにしながら、
1988年 「天草創磁 久窯」開窯
2013年 東京銀座ギャラリー和田で個展
ずっと、焼物 技術・釉薬・陶石・陶土に携わってこられましたが、
九州以外の個展は、この度の弊店の京都が2度目。
このキャリアの持ち主で、全く信じられないことです。
1970年代、民藝ブームもやや下降線の小石原で、修行に入られた機会は
リュック一つでふらふら窯元を見ていたら、
「お前、焼物したいんか?」
「ハイ。」
「なら、明日からうちへ来いや。空いちょうよ。」
「い、いちど天草帰って家に話して、戻ってきてもえぇですか?」
あれあれ。。と窯元の見習いに入ることになったそうです。
真面目な江浦さんは、「民陶祭」でお客さんに値段を安く叩かれて、
「一生懸命作ってるものを、そんな安くできません!」
と、親方の前で反撃したり、全国から修行に来る民藝信仰の陶工達と
折り合わず、集わず、靡かず。。。一匹狼で通し。。。
しかし、轆轤の、特に蹴轆轤の勉強と、登窯の経験は貴重だったと
言われます。
その後の有田の修行は、まさに住み込みの職人だったそうで。
明けても暮れても、轆轤引き。この頃の有田は、完璧な分業制。
土揉み・轆轤引き・水拭き・線出し・濃(ダミ)手・赤絵手・窯焚き……
全行程に、日がな一日同じことを繰り返して従事する職人がいた時代。
その代わり、完璧なプロ集団の集まり。
なんと、「ワタリ」と呼ばれる渡り職人もいたそうです。
コノ窯にて仕事しては、つぎにアノ窯……
定住せずジプシーのように流れ、職場をワタル身体資本の職人が
まだ必要とされた時代なのでした。
しかし、そんな機械的な日々のノルマをこなす仕事に疑問を感じた
江浦さん。
親方に「わしらしちょぉ仕事は、焼もんですか?」
親方の返事は「いや、焼きもんやなか。」

毎日、ウィンドーから入る光線の変化で美しい白磁透ける肌、描く陰影磁器ならではの、美しさ
<大量生産で、良い手仕事はできない>
そして、天草にて地元の陶石を研究するにつれ、有田でも明治期まで「泉山陶石」を使っていた。ということも明確になり、しかし取り尽くされ、乱獲されて、現在ブレンド陶石を使う状況。かつての有田とは全然違う。波佐見焼においては、相変わらずデザイナーの規格品を機械で量産する大量消費主義が続く。。
時代と共に、全国の焼物の生産地で問題を抱える「地土」質・量共にレベルは落ちていく一方。昔の有田でも、土の精製は「唐臼(からうす)」だったと。今は、大分県小鹿田焼の集落くらいでしか見られない光景。私が見た小鹿田の風景「あの、水の力でゆっくり落とす杵の装置が、土に余分な熱を持たさず、しっくり馴染む粘性の陶土を作るんですよ。」「その点、機械で精製したばかりの土を触ると、摩擦で熱くて。」「焼物は、やっぱり土ですよ。」
江浦さんは、天草陶石の「特等・一等・二等・三等……」それら等級の違う陶石の種類と、呉須と釉薬の調合を全て変えて、自分の焼物を創り出されています。
天草陶石のみの単味勝負。白一色の薄い作品は、特等。光が透けて鉄釉が泣く(滲む)鉢は、一等。鉄分が表面に出て、鉄粉が現れる古伊万里風の蕎麦猪口。
「天草陶石は良い土なので、産地にまだ限りあるうちは、なるべく特色を活かした焼物を創りたい。この鉄分が出ることを低級だとして、塩酸で溶かし、白くして安く販売する陶石の業者もいる。それは、おかしい。成形の技術、調合、焼く温度なんかを研究すれば、天草みたいな良い陶石はない。」そう、熱く語られる。
お話を伺っていて、食物もおんなじだな。と、思った。産地ブランド、見栄え、価格、安定した市場のバランス…元々あった地元の特長は、いつしか手を加えられて扱いやすいように変化している。かつての良さを知る者のみが、比較してわかるだけで、時代が過ぎれば忘れ去られて、人工物が当たり前の顔になる。
江浦さんは、自分が現役でいる間は何とか次世代に、この手仕事の良さを伝えたいと思って、日々、天草で天草陶石と対峙しておられる。そして、よくモノを見て、聞いて、書籍を開いてアンテナを張っておられる。これから先も 、たまには天草を飛び出して大事なメッセージを発信して頂きたいと思う。
微力ながら、弊店も協力させて頂きたいと切に願う。焼物オタクの、生き字引みたいな方がおられるのに、耳を傾けないのは、モッタイナイ。江浦さん、明日の17時頃までご在廊です。

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