前回の太朗窯さんを訪問するときに、石垣空港から390号線をひたすら北へ〜
途中伊原間(いばるま)という部落から、206号線に移ってずっと北東へ〜〜。
一応バスはありますが、京都みたいに本数があるわけではなく、ひたすら
待つのも辛いですね。待合を雰囲気よく赤瓦屋根にしていますが、近くに
あるからコンビニというもの、ここでは遠くまで行かないとありません。
石垣島は周囲162.218Km 面積229.00Km ですから、レンタカーでぐるり
一周することも可能です。カーナビもありますし。
綺麗な珊瑚礁を見ながらドライブするのは、気持ちがいいです。
ほとんど自転車走者は見かけません。結構起伏が激しく、標高は低いのですが
◯◯岳という山がところどころにあります。なんといっても車社会です。
平久保に入る手前に明石という部落があります。先にご紹介しました太朗窯さん
は、独立した当初ここにあったそうです。太朗さんは兵庫県ご出身で我らと
おんなじヤマトンチュですから「あかし」と読みたいところでしょうけれど、
石垣のことです「あかいし」というそうです。
明石食堂が地元の人にも観光客にも有名と聞いてましたので、せっかくだから
そこでお昼を食べてから。。と思ったら、あいにく定休日。
では、もう一軒の候補であります「新垣食堂」へ。
ここも「あらがき」ではなく「あらかき」と読みます。
市内から車で40分ほどかかりますが、地元の人もわざわざ来店する人気食堂。
13時には材料がなくなって閉店になることも多いそうで。
着いたのは正午きっかりくらいでしたが、柄にもなく並びました。
メニューは「牛汁・牛そば・ビーフカレー」のみ。
石垣牛を飼育する酪農家のお母さんの店なので、値段は安く美味しいと評判。
定番は豚の沖縄にて、牛肉のそばは初めてです。脂っこいのかと思いましたが、
スープもあっさりしています。お肉もよく煮込まれてお箸でハラハラ崩れるくらい。
運転手らしき男性は、大盛りカレーと牛汁そば大のセットとか食べてはりましたね。
お母さんのてぃーあんだー(愛情料理)のファンは多いみたい。単品でも十分満足!
沖縄は駐車場があってないような。そこらへんにちょっと、ちょっと、また
ちょっと、、どこでも路上駐車(笑)
お腹も膨れて、またひたすら一本道を走ります。
石垣牛を飼育する農場や、パッションフルーツを作る畑などの合間にムラがあって、
学校と商店や観光客向けのcafeなどがあります。
北端の平久保地区に寄る前に、池原館長の親戚ご夫婦のお宅をご訪問。
我らもつい、なんくるないさー的島んちゅ感覚となってしまい、打ち合わせが
かみ合わず、突撃訪問になってしまったのですが、快く受け入れてくださいました。
今回の旅は、食文化を研究している友人と一緒でしたので、むかし食堂を
経営されていたというご夫婦をインタビューするために来ました。
葉っぱに包まれた不思議なお菓子を頂きましたよ。
お母さんから、てぃーあんだーの「味噌ナントウ」をご馳走になりました。
ナントウというのはクムクジ、ムーチーとかいう餅菓子のことで、お祝いの
ときに作る郷土料理。餅粉を月桃の葉に包んで蒸して作ります。
紅芋を混ぜたり、それぞれの家庭の味があります。戴いたのは米味噌と
ピーナッツバターが入っていました。味の決め手は月桃の葉の香りですね。
塩っぱ甘い、なんとも異国情緒豊かなお味。
牛汁でお腹いっぱいのくせに、我らはいつもガチマヤー(食いしん坊)
戦前、戦後の石垣のおはなしを伺いながら、現在の食文化を比較する。
貴重なインタビューでしたね。先の牛汁のように牛を食べることは、
ほとんどない。今も変わらない。あれは商業用で、むかしは猪が多かったし、
珊瑚の近海でもっと豊富に魚が獲れていたそうです。
買い物は、近所の個人商店で生活用品を購入する以外、街まで出かけないと
珍しいものやご馳走は手に入らない。車がある便利な時代になったといっても、
ここから大型スーパーまで50分ほどかかるので、あまり環境は変わってない
ようです。
バブルのころに、海岸線に民俗村のようなテーマパークを建てる計画が
あったそうですが、頓挫してしまいました。
「あれはできなくて正解さー。観光地になって、便利になったかもしれないが、
自然は絶対壊されただろうからねー」
「もしできていたらホテルやコンビニはできたかもしれませんが、放牧地や
屠殺場などはもちろんなくなっていたでしょうね」
実はこちらのご夫婦、森を守る大事なお役目をなさっています。その世界では
有名人でらっしゃる。貴重な植物を見つける森の植物ハンター。
10年ほど前、亜熱帯の湿地に自生する「サガリバナ」という花の国内最大級の
群生地を平久保地区で見つけられました。それから地域の方たちに協力を求め、
群生地を守るため整備して、その功績は去年国の天然記念物に認定されました。
(大塚氏のカレンダー写真から)
サガリバナは、夏から秋の月夜に一晩だけ甘い香りを放ちながら咲きます。
まるで藤花のように下向きに、上から下へ2週間ほどかけて咲くと、花の形の
まゝ落下します。森の中に川が流れているような湿地帯に生息するため、
水辺に落ちてカーペットのようになった写真は幻想的で、こんな景色が実際
この世にあるのかと思うほど。
「天然記念物になったことで森が守られる部分と、観光化することで周りが
荒らされる危険性があります。でも、西表島の国立公園認定とともに八重山諸島
の世界遺産認定に一押ししたと思います。来年はきっと決まるよ!」
ご夫婦が歩いた森の写真を拝見すると、まだ公表できないという珍しい植物、
絡み合う不思議な樹の世界。。。これは見える目を持つ人にしか見えない世界。
お噂通り、森の植物ハンターです。
「この部落に地元の島んちゅで住んでるのは、わしらと3軒ぐらい。ほとんどは
移民ですよ。いまの川平・大川地区なども多いけど、宮古や周辺の島や沖縄から
渡ってきたんだ。それは戦争難民や飢餓から脱出するためだったりして。でも、
ここに逃げてきてもさ、貧しい土地で苦労するし、平久保は110年前に廃村に
なったこともあるわけ。今は外国人の絵描きや陶芸家が移り住んだりしてるけど」
私は今回訪れた初日にこのインタビューを経験して、八重山諸島、沖縄の見方が
変わりました。本土からの移住者に対してムラ社会に馴染めない差別化があると
聞いていましたし、島で生まれた子は「島んちゅ」「うちなー」と呼ばれるのに、
本州から移住した親は、島に50年住んでいても「ヤマト島んちゅ」と呼ばれる。
なんて聞くと、京都人みたいなはなしやなぁ。と思ってました。
島が多くの移民を受け入れてきた事実は、後日那覇でも聞いてみると、決して
珍しいケースではありませんでした。そして、簡単に苗字を変える人が多いという
ことにも驚きました。これは薩摩藩が支配していたときに、あえて服従を誇示させ
るために、日本風の苗字を名乗ることを禁じたといいます。
そのために、琉球王国時代の名残がある本土の人間には難解な読み方が、
地名として、苗字として現在も使われています。
真鏡名(まじきな) 勢理客(じっちゃく) 南風原(はえばる) 涌稲国(わきいなくに)
平安名(へんな) などなど。
沖縄難読地名(今のワープロ変換はすごいですね。ちゃんと漢字がでてきますね!)
その反動か、戦後に苗字を変えた人も多いそうです。沖縄は仲村渠(なかかんだり)
とか「仲」を使う地名が多いので、本土に移住したときに「仲村」から「中村」に
変える人もいます。(琉球王国では「中」は王朝が使う字で、使用禁止だった)
「へんなさん」なんて呼ばれたくないって、友達は苗字を変えた。そんなことは
よくあることさー。那覇でもそう言われて、先祖代々の苗字を変えるということ、
本土だとあまり簡単な気がしないけれど、感覚が違うんだなぁ。と。
先祖代々揃って巨大なお墓に入ることを望み、供養行事を欠かさない「イエ」
を大事にする風習が残る土地だけに、こだわらないところが面白いなぁ。と。
(何方かさらに詳しい方、どうぞ教えてください)
何度も何度も来島して、共に飲食して、初めてはなしを聞かせてもらえる。
初めて聞く歴史や文化がある。これまで気がつかなかったけれど、
初めて自分が反応することもある。。。。
「サッサと決めて勝手に行動しないで!それだったら、もうこの人には私達の力が
いらない人だと思うよ。できない時はできない。ってハッキリ言うのが島んちゅ
だから!」
いろいろお世話になるとお忙しいだろうと気を回して、
黙って予定を決めて先走ったときに返ってきた、一言。
なんどきも戴く島んちゅの親切心が、誠に有難く身に沁みました。
そして次回は、読谷村へ〜〜
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